こんなこと書くのは賭けというか、アンチも多いしファンは熱烈だし色々と気になることはあるけど、でも知らない人には知ってほしいなぁと思うので書いてみます。
今さら説明するような人でもないので一応wikiを貼っておきます。
村上春樹 - Wikipedia
肯定派否定派、かなりわかれる癖のある小説家
村上春樹は長編小説(『1Q84』や『ノルウェイの森』、最近では『騎士団長殺し』など)で有名で、小説に関しては好き嫌いがかなり分かれる作家だと思います。
実は『騎士団長殺し』まだ読んでません。まず口調や言い回しが独特で、日本人の文体としては異質であること(英語の文学ばかり読んで育ったせいだと私は思ってます)。それからちょっと訳の分からない世界観。性描写がたまにキツイ。たまにグロい。主人公がワンパターン。長い。etc…の理由で、嫌う人が多いのもうなずけます。
逆に、熱心なファン(ハルキスト)はそのへんの全てが好きなんだと思う。キムタクが演じる役は全てキムタクというのと同じで、村上春樹が書く小説は全て村上春樹。
(悪く言っているつもりはなくて、私自身村上春樹の小説はほとんど読んでいて面白いと思っています。)
ノーベル文学賞のタイミングで毎回話題になりますが、その報道のせいもあってアンチを増やしているような…。本人は全く出てこないにも関わらず。
実は村上春樹はエッセイがとても上手い
のです。
この事実はどれだけ知られているのだろう。実はエッセイのほうが癖がなくて万人に受ける。と思います。
独特の口調もややマイルドになるし、難しい世界観は皆無、キツい性描写や暴力的な表現もなし。
特にこの『遠い太鼓』はギリシャとイタリアの滞在記なんだけれど、彼の旅行記・滞在記系はけっこう驚くほど面白いので、読んだことのない人にはぜひともおすすめしたいです。
ではそのエッセイってどんな感じなの?…ということで、気に入ったところをいくつか引用してみます。そういう点に関していえばイタリア車は偉いと思う。表情があるというか、ひょっとして道端で立ちどまって片足あげてうんこしちゃうんじゃないかというような車は、そう誰にでも作れるものではないのだ。イタリアの車のそういうところが僕は好きである。性能はともかく。
『遠い太鼓』p.417
こんなふうにちょっとユーモアのある表現がコロコロ転がっていて、楽しいです。村上春樹の小説も実はそれなりにユーモアがあるのだけど、登場人物が語るという設定には少し無理があるのかな?というか、彼自身エッセイのほうが気負わず適当に面白いことを言えている気がして、読みやすいのです。
もっと発展(?)するとこうなる。
長くギリシャにいると、おっぱいなんて本当に見慣れちゃうし、見慣れちゃうとあれもけっこうなんでもないものなのだ。べつに自慢するわけじゃないけど。
『遠い太鼓』p.77
下ネタは時々ありますが、下品なものではありません。
「村上春樹は性描写がいやだ!」というひと、てぶんけっこういますよね。『ノルウェイの森』とか女性にはキツい場合が多いのかも。でも、エッセイなら大丈夫なので、ご安心を。
たまに真面目なことも話していて、心を打たれます。
その頃にはその小説が書きたくて、僕のからだはどうしようもなくむずむずしていた。からだが言葉を求めてからからに乾いていた。そこまで自分のからだを「持っていく」ことがいちばん大事なのだ。
『遠い太鼓』p.161
文章を書いている方ならこの気持ち、わかりますよね。書きたいという気持ちのボルテージが高いところまで達することを「言葉を求めてからからに乾いていた」とする表現は、本当にその通りだなと思う。
この引用部分だけじゃなんともわからないと思うけれど、私はこの本を読んでギリシャという国に非常に興味を持ちました。愉快なエッセイです。
紀行文ではほかに、
こちらは取材で行ったノモンハンやアメリカ、メキシコなどの旅行記。それはむしろ病に似ている。僕らは(少なくとも僕はということだけれど)本棚から地図を取り出してページを開き、机の上に置いてじっとそれを眺める。地図というのは魅惑的なものだ。そこにはまだ自分が行ったことのない地域が広がっている。穏やかに、無口に、しかし挑戦的に。聞き覚えのない地名が並んでいる。渡ったことのない大きな河が流れて、見たことのない高い山脈が連なっている。
『辺境・近境』p.196
いいこと言います。(誰)
旅が好きな人に共通するのは、単純だけれど「飽くなき好奇心」かなと。私自身も旅が好きだけれど、地図を広げたときに、行ったことがない&今後も行かないであろう土地というのは必ずあるわけで、そのことをとても残念に思う。大げさだけれど、未踏の地というものを残して死んでいいものか…と。
それが、なぜ行かなければ行けないのか?と問われると、別に行って何かが見たいとか何かがほしいとかではない。ただの好奇心としか言いようがない。
…というような、言葉にするほどでもなかったり言葉にしがたい単純な感情を、丁寧に書いてくれています。
ちょっと趣旨がずれるけど村上春樹の引用特集
実は、引用を集めるのが趣味です。
普段は読みながら付箋を貼っておいて、読み終わったらブクログというサイトにまとめて引用をメモしてます。
なのでストックの中からすこしご紹介。
日々走ることは僕にとっての生命線のようなもので、忙しいからといって手を抜いたり、やめたりするわけにはいかない。もし忙しいからというだけで走るのをやめたら、間違いなく一生走れなくなってしまう。走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」をひとつひとつ大事に磨き続けることだ。暇をみつけては、せっせとくまなく磨き続けること。
『走ることについて語るときに僕の語ること』p.111
実はこの方はランニングが趣味(という軽々しい言い方でいいのかな?)です。マラソンにも出ている。とてもストイックな人で、毎朝走っているらしい。
でもこの言葉は文字通りの「走る」以外の話にも通ずるなぁと思う。やめる理由は山ほどあって、続ける理由は一握りしかない。実は人生そんな状況ばかりなんだな、と。
ついつい私たちは日々の選択(職業とか結婚とか)に「前向きな理由」を求めてしまう。たとえば好きという気持ちがマイナスの感情を常に上回っていけない、とか。もちろんそれは理想だけれど、続けているとマイナスの感情のほうが多く見えてしまうときもある。じゃあ天秤にかけて辞めるべきなのか?…となると、そうではなく、実は「続けること」それ自体が隠れた大きな目的なのかもしれないのです。
つづいてこちら。
小説を書く苦しみについてはよく語られるけど、苦しいのは当たり前のことでしょう。僕はそう思う。ゼロから何かを生み出して立ち上げることが、苦しくないわけがないんです。そんなこといちいちことわるまでもない。僕にとって大事なのは、それがいかに楽しいかということです。
『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』p.410
ちょっと意外というか勇気づけられた一文。苦しくない人なんていない。大事なのはいかに楽しいか。こんなに才能ある人ですらそうなんだ。
…であるならば、自分のような凡人は「苦しい」を理由にすぐ辞めてはいけないよなぁ、と思うし、また同時に「たしかに苦しい、でもそれでも楽しいかどうか」という思考回路をもつ必要性を思い知らされた一文でした。
もう少し続けてみます。雑誌an anに連載したわりと軽めのシリーズ。
貴重な燃料をため込むためにも、若いうちにせっせと恋をしておいた方がいいと思う。お金も大事だし、仕事も大事だけど、本気でじっと星を眺めたり、ギターの調べに狂おしく引き込まれたりする時期って、人生にはほんの少ししかないし、それはなかなかいいものだ。
『村上ラヂオ』p.173
ある程度年齢を重ねてくると、恋という感覚がもうなくなってしまう。いやそれは自分自身がもう恋をしないというだけで、世の中を見渡せば、まだまだ同世代で恋をしている人はいるのかもしれないけど。
でも、ここに書いているように「星を眺めたり」「ギターの調べに狂おしく引き込まれたり」という感覚は、どうしても薄れてしまうのではないかな。
仕事をして、お金のこと、将来のこと、いろんなことを考えないといけない状況でする恋愛と、若くて何も知らないときにする恋愛は、だいぶ違う気がします。そんな純粋な陶酔がもうできないのかな〜なんて思うと、ちょっとさみしいものです。
(オッペンハイマーは)夢中になって原子爆弾をこしらえたのはいいけど、その実験を目の前にして「私はなんという恐ろしいものを作り上げてしまったのか」と真っ青になった。広島に原爆が投下されたあと、当時のトルーマン大統領に向かって「私の両手は血に濡れています」と言った。大統領は表情ひとつ変えず、きれいに折り畳んだハンカチを差し出し、「これで拭きたまえ」と言った。政治家ってすごいですね。
『村上ラヂオ2』p.194
前後の文脈がどんな話だったかは忘れてしまったのだけれど、この部分だけを読んでも衝撃的で忘れられない。
政治家が嫌われるのはその厚顔な振る舞いもあると思うけれど、まあ簡単に言うと「精神がめっちゃ強い」ってことですよね。さすが歴史に名を刻む政治家は違うな〜と、のんきなコメントをしてしまっていいのかわからないけれど、良くも悪くもタフな人たちだよなと思うのです。
まともな精神では、自分の一声で大量の殺戮をしてしまう状況なんて耐えられないと思う。現に戦争ではそうせざるをえなかった人が時に自ら命を断ったり、精神的に異常をきたしてしまうわけで。
いやはや、大統領や総理大臣というのは…タフですね。
今なら「それ幻聴だよ。精神科医にみてもらった方がいいんじゃない」みたいなことになりそうだけど、十九世紀末のヨーロッパの芸術家にとって、幻聴だとか幻覚だとか錯乱だとか、その手のものは日常茶飯事だった。狂気のひとつやふたつ、持ち合わせていない画家や作家や音楽家は、みんなに「あいつ、ちゃらい」と軽んじられるくらいだった。
『村上ラヂオ3』p.146
これまた政治とは別の話だけれど、重い話を軽くしてしまう絶妙なタッチ(言葉遣い)がいい。
そう、政治家と同様、芸術家というのもまともな精神ではやれない職業のひとつだし、芸術家というのは突飛でなければ「まともすぎる」なんて言われる始末。
あと最近思うことは、精神的な病気の分類がここのところ増えているけれど、精神病患者自体が増えたわけではなくカテゴライズの問題なんだろうな、と。昔から近所にちょっと変わった人というのはいて、でも「ちょっと変わってるね」という話で終わっていた。そういう人たちに病名がついたのかなぁなんて思うのです。関係ない話ですが。
最後にわたしの好きな一節で終わりにします
「幸せそうですね」と僕はたずねる。
「もちろん」と彼は言う。「とてもとても幸せだよ」
僕は思うのだけど、日本人のいったい何人が「幸せか?」ときかれて、こんな風に答えることができるだろうか?(「ミケーネの小惑星ホテル」)
『村上朝日堂』p.224
「幸せですか?」
と聞かれたら(ちょっと松岡修造みたいだけど…)、なんと答えられるだろう?
そういうときに「まぁ幸せですよ」とすこし申し訳なさそうに言うのでなく、「もちろん」と胸を張って言えること。この感覚は、たしかに日本人に足りないものだろうなぁと思う。
自分のまわりを取り巻く状況が違うのではなく、捉え方が違うのかもしれない。環境を変える努力だけでなく、自分の意識を変える努力も必要かなぁなんて思ってます。
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私は初めて読んだ村上春樹のエッセイが最初に紹介した『遠い太鼓』なのですが、
それまで特別エッセイが好きと思っていなかったけれど、以来「こんな文章が書きたい」と思うようになりました。
誰も傷つけず、心が温まり、たまに勇気づけられ、ちょっとユーモアがある。
上手に日本語を扱える人間になりたいです。
気になったらどれか手に取って読んでみてください。あ、つい最近新刊出てるみたい。まだ読んでないけれど。
今週のお題「あの人へラブレター」ということで書いてみました。