ここではない、どこか遠いところ

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白線の向こう側


ある夜のこと。

踏切の前で電車が行き過ぎるのを待っていた時、ふと、足下の白線に目が行った。

自分の体をこれ以上進ませない透明なやわらかい壁が、その白線から立ち上り、抵抗を与えてくるような感覚だった。

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学生のころ「アフォーダンス」という言葉を習ったことがある。先生は「アフォーダンス」の例として、駅のホームを挙げた。ホームに描かれた白線より向こう側に踏み出さず、きちんと整列して電車を待つという人間の行動が「アフォーダンス」による、という話だった。(それからしばらくの間、課題で「アフォーダンス」を用いることが小さく流行した。)

「アフォーダンス」とはデザイン・建築の用語の一つで、ざっくり言うと「何かしらの行動を誘発する形態」だと私は解釈している。

アフォーダンスは、物をどう取り扱ったらよいかについての強い手がかりを示してくれる。例えば、ドアノブがなく平らな金属片が付いたドアは、その金属片を押せばよいことを示している。逆に、引き手のついたタンスは、引けばよいことを示している。これらは、体験に基づいて説明なしで取り扱うことができる。
Wikipedia「アフォーダンス」

いま思えば、駅のホームの例は「アフォーダンス」と少し違う気がする。白線は「サイン」であり、「白線を越えてはならない」というのは経験・学習によって得られた「知識」である。だから、街を自力で歩いたことのない人は白線の向こう側に踏み出してしまうかもしれないし、白線が世界共通のサインでなければ、伝わらない国籍の人もいるだろう。

ただし白線が「アフォーダンス」を持つ可能性としては、それを見るとなんとなく「越えてはならない」という感覚を人間が本能に抱く、あるいは「その線に沿って歩きたい」と思う(子どもの頃の私は常にそうだった)……とも、いえなくもない。


まぁでも、街にある「アフォーダンス」とはもっと、無垢な人間に共通して作用する形態だと思っている。

疲れたり体調が悪くて道端にどうしても座りたいとき、地べたに座るのは誰だってためらう。本能的に、私たちは縁石やビルの入り口などの段差を探しているだろう。小さな段差さえあれば、なんとなく腰かけられる気がする。これは誰からも教えられたことのない感覚で、まさに「アフォーダンス」ではないだろうか。

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話を戻そう。アフォーダンスではなく、白線の話だった。

踏切の前には大勢の人がいた。もちろん白線だけでなく遮断機の力もある。

みな、動かずに待っていた。一歩、二歩、線の先に踏み出すことは容易である。けれども誰もそうしない。別に「えらい」わけではない。死にたくないからだ。死にたくないから。それだけの動機で、ここまできちんと静止する人間ってすごいなと、単純に感動した。

街を歩く人も、走る車も、ちょっと飛び出したり信号を無視したりハンドルを切ったりすれば、一瞬で死ねるし人を死なせられる。なのにほとんどの人が……自殺志願者や酔っ払いや居眠り運転やテロリストを除き、そんなことをしない。

日本全国の1億数千万の人々の、また世界全体の70億以上の人々の99.9%(くらいかな?)が一様に、理性の司令に従って白線を越えずに生きていると思うと……もの静かに白線のこちら側に停止しているさまを思うと、人間が他の動物と一線を画す理由がよくわかる気がする。

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そして、白線を前にきちんと整列する人間の理性の力は、すんでのところで「一歩踏み出してみようかな」とチラっと生じる感覚を押し止め続けているのではないか。と思う瞬間が、私にはよくある。

もちろん怖いからやらない。けれど、踏み出してしまう人と、踏み出さない自分が、まったく別次元の生き物ではないなと、常に感じながら生きている。

その「向こう側に決して踏み出さない」状態で常に生きている感覚は、小さな小さなストレスを私たちに与え続けているのだろう(だからみんなハロウィンでハメを外してしまうのかな?)。人間って、とてもよくできた生き物だなと思うと同時に、とても不都合の多い生き物なんじゃないかと、妙に心配になってしまう夜だった。


【この記事で使用しているカメラ】
Nikon FM2