ここではない、どこか遠いところ

旅行記、写真、読書、日々考えること


秋が嫌いだ。

そう思い始めたのは、23歳ぐらいの頃だと思う。別に何か嫌な出来事があったわけではない。意識し始めたのがその頃だと思う、というだけで、本当はもっと前から嫌いだったような気がする。

また今年もしっかりと涼しい秋がやってきた。そしてやっぱり、秋は嫌いだ。

-

「秋が嫌い」となかなか公に言いづらいのは、「秋が好き」という意見が多数派だからだ。気候が過ごしやすい(雨が少ない)、食べ物が美味しい、紅葉が美しい、読書や芸術鑑賞に適している、連休がある……などなど。私が何度かまわりに「秋が嫌い」と言っても、賛同を得られた試しはない。

個人的に「秋が嫌い」と言いづらいのにはもう一つ、夫が秋生まれだから、という理由もある。「秋生まれだから秋最高」というわけではないようだけれど(どんな季節が好きとか嫌いとか深く考えないタイプの人なので)、こちらとしてはやはり、気にしてしまう。

-

ここ数日の秋の訪れは多くの人々を喜ばせたと思う。「やっと悪夢のような夏が終わった!」というように。

一方私はといえば「チッ、またこいつが来たか…」という気分である。

なぜそこまで秋を嫌うのかというと、これは人間に対する嫌いという感情と似ている。人を嫌うときの理由として、例えば「生理的に受け付けない」「性格のある部分が我慢できない」「嫌なことをされた(される)」などの他に「一緒にいると自分のペースを乱される」というものもあるだろう。私にとっての秋はそれだ。

秋になると、余計なことが気になる。妙に感傷的になり、物事の深部まで考えさせられ、自分の内面と否応なしに向き合わされてしまう。

そういう風に強制的に思考回路を変えられてしまう感覚が、落ち着かないのだ。


ではなぜ秋になるとそういう現象が起きるのか?

答えは端的に言うと、「涼しいから」だと思う。

今年の夏は特に暑かったので、通勤でわずかに歩くという行為ですら、苦行に近かった。夜でも涼しい日がほとんどなく、ぬるい水槽の中を歩くような不快感を常にもちながら、「とにかく早く電車(家)まで!」と必死だった。

でも今は違う。職場から駅まで、また駅から家までを歩く道のりが、まったく疲れない。身体的に辛さがないので、快・不快に対する感覚が”無”になっている。

すると必然的に、それ以外の何かを考えて歩かなければいけないし(中には歩くときに思考が”無”になる人もいるのかな?)、道にあるものが数週間前の夏より異様にハッキリと浮かびあがり、目に飛び込んで語りかけてくる。

帰り道の左側にある、個別指導塾。デカイ文字の貼られたガラス越しに蛍光灯で満遍なく照らされた明るい教室が見え、子どもたちが何人か、机を囲んでいる。そんなものこの夏の間、一度も見向きもせず考えもしなかった。が、今は見てしまう。勝手に目に入ってくる。

…というようなことが、ペースを乱しにかかる。

体幹がしっかりせずぐにゃぐにゃしている自分が悪いのだ。そんなものでいちいち乱される自分が悪いのだ。とはわかっているものの。

-

秋から冬にかけ、日没が早まるのはもちろんのこと、夏に比べて音や光が空気中を通りやすくなる。と思う(詳しいことはよく知らない)。

涼しくなってハッキリ物事を考えるようになってしまった脳みそに加え、以前よりも鮮明に届く街の雑音や電車の走る音、夕焼けの色。

どうやってこんなにメランコリックな季節を乗り切ればいいのだろうか?

-

私たちは昨年の秋に入籍した。11月3日、文化の日。

あえてそのタイミングにした理由は、二人の誕生日以外にするなら(私の資格試験があって夫の誕生日は無理だった)なんとなく意味のある日がいい、という程度で、また祝日なら今後祝いやすいだろうし、大安で日取りが良かったし、数字の感じも気に入ったし、文化の日という響きがいいし、とまぁわりと適当だ。

加えて個人的には「秋を好きになれるかもしれない」という期待もあった。

一年の1/4を占める「秋」という季節に対してネガティブにしか捉えられないのは、いろいろと不便なので、結婚記念日が秋ならばいいイメージがもてるようになるかもしれない……と、ちょっと考えていた。

もうすぐ、1年が経つ。

が、残念ながら今のところまだ、その効果は出ていないようだ。人間の感情ってそこまでシンプルじゃないみたい。


入籍した直後に長野県の野尻湖まで記念旅行に行った。その話も、いずれ書きたいなぁと思ってます。


【使用しているカメラ/フィルム】
Fujifilm Klasse S+Fujicolor C200

こちらもぜひ

www.anyplacebut.tokyo