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インターネットは私たちを幸せにしたのだろうか?

関西の地震では今もたくさんの方が不便を強いられていると思う。

不幸にもブロック塀の下敷きになってしまった女の子のニュースは、建築を仕事にしているだけに他人事と思えず、はっとさせられるし本当に心が痛ましかった。建築物(工作物含む)は容易に人の命を奪うものだ、責任感がない仕事をしてはいけないんだと、いつもいつも考えさせられる。

少しでも被害が少なく済み、少しでも早くみなさんが平常どおりの生活が送れるようになるといいなと思うし、個人的にも防災対策しっかりしなきゃな…と改めて感じた。


そして一昨日、こんなニュースをふと目にした。

headlines.yahoo.co.jp

内容は、木下優樹菜さんが地震の後に通常通りインスタグラムを更新していたことについて軽く非難するようなコメントが寄せられ、それに対して、いつも通り元気な投稿をすることが自分の役割でもある…と返した、という話。(同時に夫の実家は無事だったことも添えて。)

ちょっと言葉遣いを間違えていることなどは置いておいても、「誰も悪くないよなぁ」と感じた。


そして、長年の間少しずつ蓄積してきた「天災に襲われた時の違和感」の正体が今やっと、遅ればせながらわかった。

ずっと気になっていた。天災や何か大変なニュースがあったのに何も触れない有名人は叩かれる、触れても言葉遣いが間違っていると叩かれる、気づかずに通常営業していればもっと叩かれる…。

全てはインターネットのせいだ。当たり前の話なのだけど。

個人がここまで容易に情報をやり取りするツールを持ってしまったことは、もしかして、とても不幸なことではないだろうか?


インターネットがなかった頃は?

インターネットがなかった頃を思い出せば…

そもそもSNSのように手軽に発信するツールはない。有名人であれば、せいぜいラジオやテレビの生放送がたまたまあるかどうかだろう。

また、そこでもし対応を誤ったり失言したとする。でも、今度は視聴者(一般人)にとって非難の声を届かせる手段がない。だからせいぜいみんな、家庭や学校や職場で話題にするぐらいで、よっぽどのことなければデモや投書なんてしなかった。

もしかして、

両者ともに、インターネットがあってもなくても本質的には何も変わっていないのではないだろうか?

有名人にとっては、発信する方法があったからたまたまうっかり発信したりスルーしてしまうだけであり(その多くは)悪気がないはずだし、

一般人にとっても、容易に受信できることに加えて、容易に発信する方法があるから周囲に話す代わりにネットに不満を上げているだけであり、

昔に比べて語彙力が落ちたとか、常識がなくなったとか、細かいことを言うようになったとか、クレーマーが増えたとか、そういう話ではない気がするのだ。

なんだかインターネットに無自覚のうちに踊らされている気がした。(まぁ、今更な話ではあるんだけど。)

そしてわかりやすく有名人と一般人に例えたこの図式は、どんな人同士でも成立するほどに、発信自体のハードルはこの10年から15年ほどでぐんと下がったと思う。それはもちろんSNSの普及と共に。


インターネットは急速に普及した

30歳前後の私ぐらいの世代は、もしかすると、自分たちで扱えるレベルのインターネットがある生活とない生活を体感した最後の世代かもしれない。

小学生の頃、初めて家にパソコンがやってきて、初めて父親が携帯電話を持った。中学生の頃、初めて自分の携帯電話を持ち、写メールを送りあった。高校生の頃、まだ電話回線のインターネット上で、ホームページを作ったりブログを書いたりしてみた。大学生以降、スマホが登場してみるみるうちに進化し、SNSが拡大した。

そんな風に急速にインターネットが普及した20年を生きた。

インターネットが登場した当時は、今ほど情報が行き来するスピードは速くなかった。突然バズったり炎上するということもなかった。まだ拡散性が弱く、多少コミュニケーションを便利にするためのツールという認識だったように思う。

でも今は、コミュニケーションがインターネットなしでは成立しないほどになった。


情報の密度が損なわれていく危機感

ここ最近、個人的に危機感を強めている。インターネットがあるからついつい情報をキャッチし過ぎてしまうことや、ついつい情報を発信し過ぎてしまうこと。その結果、自分の“インターネット以外”の時間が急激に失われていること、について。

確かにネットは便利だし面白い。でも、そこで得られる情報には実はあまり質のないものも含まれているし、そのせいで自分の時間だけでなく感情もどうでもいい方向に動かされ、どうでもいいことを吐き出すためにネットを使ってしまう。


グアテマラを旅行した際に感じた。まだまだ情報的に隔離された先住民の人たちの生活が、おそらく私たちのそれよりも狭く濃厚であろうことを。

www.anyplacebut.tokyo
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インターネットは確かに情報の送受信を圧倒的に容易くした。でも、この世界に存在するものの質量を変えたわけではない。

私たちが日々扱える情報量は増えていない。ただ、そのやり取りが劇的に速くなっただけだ。

「情報」というものを、文字列やビジュアルイメージや音声などのことだけでなく、身体の周囲にまとわりつく些細な現象からキャッチし得るものも含めると…扱える全体の情報量が一定であるならば、やり取りする情報が一見して増えているということは、その質や密度が落ちていると言えるのではないだろうか。

(なぜ全体の情報量が一定かというと、意識のある時間は常に情報を扱っており、時間自体は増えていないから。)

そのことを勘違いし、自分たちの生活に情報が増えて豊かになったと思うのは危ないのではないだろうか。


もし、かつてのインターネットがない時代に戻れるとしたら、どうだろう?

そう自分に問うてみたら、それでもいいかもしれない、と思えてしまった。その方が逆に心が平和なのかも、と。

仮に今インターネットが消えたとしたら、SNSやブログやネットニュースや動画が遠ざかる代わりに、もっと身近なものの解像度が高くなるだろう。


取捨選択の必要性

でも今、どうすればいいのか。

実はこんなことを語っている私自身、けっこうアップル信者で高額なiPhone Xをひーひー言いながらも使っているし、インスタグラムもツイッターも毎日見るし、ネットバンキング最高だし、このようにブログを書くのが好きだし、情報社会にハマりまくっている一人だ。


そこで、思い出したこと。

村上春樹氏が言っていたのだけど(毎度村上春樹が登場するのでまるで熱烈なファンみたいな感じだけどまぁいいや)、彼は、ジブリのアニメは全く見ないんだという。

もちろんみんながいいと言うからジブリの作品はいいものだろうけど、自分の人生は有限だから取捨選択している、というような話だったと思う。

読んで「なるほどな」と思った。

同じように考えて、インターネットの情報を前にして受動的に(自分としては能動的だと思っているけど実は受動的に)やり取りするのでなく、自分なりに取捨選択していけるようにしたい。

みんなが知っていることを知らないことは損ではないと思う。自分の知っていること、知りたいことの密度を上げ、濃密に情報をこねる日々を送ることは一つの幸せな解答ではないだろうか。

もちろん浅く広く、情報をひたすら操って生きる人がいてもいいと思う。そうやってネット時代を飄々と乗りこなす人がいればそれはそれで楽しそうだし、一つの充実した人生の選択肢かもしれない。

要するに、自分はどの程度の情報密度で生きていたいか、どうすれば本当に心地よく楽しい日々を過ごせるか、流されずに考えてみたいなということ。

インターネットは急速に普及したし、急にSNSやら動画サービスやら一般化して当たり前になったので、立ち止まって付き合い方を考える暇もないまま情報のやり取りに躍起になって時間を浪費してしまっている気がした。

ネットサーフィンのつもりがいつの間にか溺れてしまっていた、ということのないように…。



まとめると、

  • 昨今の炎上の原因は情報の受発信が容易すぎるせいであり、根本的に人間性が失われつつあるわけではないと思う。もちろんこの状態が続けば人は進化や退化をするだろうけど。
  • インターネットは20年ほどの間にものすごいスピードで一般化したため、私たちはその波に溺れていることに気づいていないのでは。
  • ネットに限られた話ではないけれど、豊かに暮らすためには情報の取捨選択を意識的に行うことが大事かもしれない。


もうきちんとそれを考えて実践している方もいるであろう中で、長々と講釈たれてしまいお恥ずかしい気持ちもありますが、自分にとってはやっと気づけたことだったので。

そして改めて。

ネット上にきちんと残って意味のあるブログをつくっていきたいものだなぁ、と思いました。

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